K「もっと早く死ぬべきだった」に込められた真意
理想主義者は自身が弱いからこそ自己を否定し、憧れた理想の姿を追い求める。 なのでKは、最初から弱い。だが、弱いけれども自殺はしていない。薄志弱行だとはいえ、まだ死んでいない。
したがって「もっと早く死ぬべきだった」と考えている「早く」が指す時とは「僕はばかだ」と自覚した時だと考えるのが自然だろう。すなわち「僕はばかだ」と自覚していながら、薄志弱行だったので、自覚した後も尚、おめおめと生きながらえてしまった、という悔恨の思い。
しかし一方で、同じく女性にうつつを抜かしている「ばか」である「(若い頃の先生の)私」は自殺には決して至らない。なぜなら先生は理想主義者ではなく現実主義者だからだ。
現実主義者の私が自殺するに至った真の理由
「学生の私」から先生と呼ばれている「私」は、若い頃に親友を自殺で失っていた。その話は【下「先生と遺書」】の中で、恋愛を取るか友情を取るかと悩んだ末に起きた「悲劇」というテーマでは語られていない。自己の利益を守るために親友を裏切った、実利を取った不義理な男の物語として終始描かれている。
そして一般的に受け入れられがちな解釈としては、最期まで義を貫いたKの自死は美化されて、「お嬢さん」と結ばれたのちも死んだように生き続けた、狡猾な「私」の自死は、明治天皇の崩御というタイミングに便乗した、身勝手極まりない死として批判的に捉えられてしまう、というものである。
しかし「自殺」には美しいも、何もありはしない。
自殺をしてはならない。その理由は、誰かが自殺することによって必ず、この世に残された人の中で悲しんだり苦しんだりする人が出てくることになるからだ。【下「先生と遺書」】の中では「私」や「奥さん」「お嬢さん」がそれにあたる。『こころ』は決して「自殺」推奨の物語などではない。
しかしその点を踏まえた上で、なぜ漱石は『こころ』という物語の最後、「(先生と呼ばれている)私」が「きれいな奥さん」をこの世に残して自殺する選択をしてしまう、という結末を描くに至ったのか。
その理由について、私(脇坂)は「遺書」の果たした役割という観点から考察してみた。
問 先生と呼ばれている「私」が自殺まで追い詰められた理由は何か。30字以内で答えよ。
【解説】Kも「(先生の)私」も「遺書」を書いている。
Kの遺書は「(先生の)私」宛に書かれたものだ。
「(先生の)私」の遺書は、鎌倉の海岸で出会った「(学生の)私」宛に送られた。
「遺書」を書くと人は必ず自殺する、というわけではないが、しかしそれが人を自死へと向かわせたり、背中を押したりする切っ掛けやひと区切りになったりはするのではないか。
いや、そうではなくて「遺書」そのものを中心に置いて考えてみる。
「遺書」は日記とは違い、必ず書き手以外の読み手を必要とする文書である。Kには親友である「(先生の)私」がいた。だからKは「(先生の)私」宛に遺書を書けた。しかし「(先生の)私」はKがこの世にいなくなってから、晴れて「お嬢さん」と結婚できたわけで、そのような結婚相手に宛てて遺書を書くことができないでいた。
妻である「お嬢さん」は、決して「(先生の)私」の遺書の読み手ではなかった。
「(先生の)私」には遺書の宛て所がなかった。そして「死んだつもりで生きて行こうと決心」(下・五十五)して生きながらえているうちに、鎌倉の海岸で自身のことを「先生」と慕ってくれる、心を寄せてくれる若者と出会った。「学生の私」という存在である。「(先生の)私」は自身と似たような境遇にある「学生の私」にならすべてを打ち明けられる、「自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけよう」(下・二)という思いが込み上げてきて、長い長い手紙のような「遺書」の制作に至るわけである。
問 先生と呼ばれている「私」が自殺まで追い詰められた理由は何か。30字以内で答えよ。
答 (例) 先生の「私」が書いた遺書が学生の私という読者を得たから。(28字)
最後に、『こころ』という物語の中で、女性(奥さんやお嬢さん)は最後まで置いてけぼりにされてしまっている、という点を指摘しておく。それは漱石といえども、当時の社会状況や通念からの影響を免れ得ず、自由ではなかったということを示している。なので、決して「女性蔑視」や「差別」などをしていたわけではないという意見を付記しておく。
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